「HSP」は無い。
この度新年度になったのを機に「HSP」の肩書を大々的に外そうと思います。
Twitterを見て頂いている方の中にはもう気付いている人もいるかもしれませんが、名前に「HSP」という文字はありません。だいぶ前に外しました。
結論を先に申し上げると、私自身の考えでは、「HSP」というものはなく、それはあくまで概念的なものでしかないということに辿り着いたからです。
このサイトを設立するにあたって、「HSP」というものをコンセプトにし、それにまつわることをたくさん書いてきましたが、どうやら「HSP」というものは無く、それどころか「HSP」という言葉によって重大な問題を見逃してしまっているのではないかということに気づいたからです。
これはたくさんの精神や心理に関する本や考察を読み、尚且つ自分自身を深掘り、周囲の人たちを観察したり話を聞いた結果です。
私自身の考えなので、しかも専門家ではないとのことで同意しかねるという方もいるかと思いますが、「HSP」というものについてもう一度考えるきっかけになってくれたら幸いです。
以下、私の考察です。
HSPが無い理由
「HSP」の中でも、身体的な過敏症は間違いなくあると思います。
光や音、匂いなどの五感が敏感だというものです。これについては異存はありません。そういった身体的特徴はあると考えられるし、実際データで測ることも可能でしょう。ADHDや自閉スペクトラムなどが当てはまりますし、これらは科学的にも診断名として確立しています。
問題は心や精神の方です。
「繊細な感性」というものは非常に曖昧で、もしそういったものがあるならば、分かりやすいのは「芸術や自然などに造詣が深い」といったことでしょうか?
しかし、いわゆる「ちょっとしたことを気にする」、「相手の言動が気になる」、「空気を読み過ぎてしまう」、「自分に自信がない」、「傷つきやすい」などは繊細な性質と言えるでしょうか?
それらは自分の過去や、自分の心に問題があるからとは言えないでしょうか?
こういったことを「HSP」や「繊細」などという言葉で片づけたり覆い隠してしまうことで、そういった心の病理の存在に気づきにくくなっているように思います。
「HSP」という「前向きな言葉」によって目を逸らし、自分の心の奥底を掘らなかったり、過去の感情や現在の気持ちにフタをしてしまったりするのではないでしょうか?
あるいは親による過干渉、虐待といった毒親からの接し方に問題が起因していたり、現在もその親との関係性に悩んでいたりということもあります。親による人格形成は自分の性格のかなりの部分に影響します。
さらには、自己肯定感が育っていないにもかかわらず、他人からの承認を得るためにSNSを利用し、他人からの反応を異常に気にしてしまう、というようなことを「相手のことが気になってしまうHSP」という言葉で片づけてしまっているようにも思えます。
「HSP」という、一見前向きな言葉でそういった自分の状態の見方を変えることによって、生きる推進力を得ている様な気がしますが、それは「傷ついている自分」を放置しているようなもので、むしろ「うつ病」や「自殺」といったことに繋がるのではないかと危惧しています。
実際「HSPだから」といった考えで、果たしてどれだけの人が自分自身の心の葛藤や苦しみから解き放たれているでしょうか?
そういった意味では、「HSP」という言葉は大変罪深いものだと私は感じています。
まとめ
いかがだったでしょうか?
「HSP」というカテゴリでこちらのサイトに来てくださったり、Twitterなどで繋がらせていただいた方たちはもしかしたら不快に思ったかもしれません。
しかし、どうしてもこれを書かずにはいられませんでした。
自分自身を省みた時、「HSP」などという言葉では解決できない程自分自身の心は深く傷ついていることに気づき、怒りや自己否定感でいっぱいの感情から「HSP」という言葉で片づけられている神経症的な症状が出ていることに気づいたからです。
ただ、この「HSP」という概念があったからこそきっかけになり、自分自身の心を深く見つめられるようになったという意味では、「HSP」は大変有意義なものであったと思っています。
なので皆さんも、もし、自分が「HSP」だと感じたならば、「HSPだからしょうがない」という場所にとどまらず、前述したこと、もしくは他の自分のそういった感情がどこからきているのか、それを自分の心や過去に照らし合わせて考えてみることをオススメします。
下記の本が大変良書です。心の深掘りに大変役立ちます。
是非皆さんも参考にしてみてください。
そして願わくばこれからも「The Nomad of the Spirit」をよろしくお願いいたします。
※HSP関連の記事は逐次修正を加えさせていただきます。
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